ニコンは7月25日(火)に創立100周年を迎える。もともとレンズメーカーとして出発したニコン(日本光学工業)だったが、戦後はカメラメーカーとしての頭角も現した。1948年にニコンIを発売し、先行したキヤノンなどを追いかけて、戦後のレンジファインダーカメラブームの火付け役となった。ニコンIは画面サイズ24X32ミリのニコン判/ニホン判カメラであり、1949年には24X34ミリとしたニコンM、そしてシンクロ接点を加えたニコンMを1950年に発売した。1954年にはシャッター機構を一新し、24X36ミリのライカ判画面サイズを採用したニコンS2を発売した。このカメラはニッコールレンズに注目した「ライフ」誌の報道カメラマンたちに愛用され、ブラックモデルも作られた。さらに、ニコンのレンジファインダーカメラ史上最高と言われるニコンSPが1957年に発売され、さらにファインダーを簡略化したニコンS3が1958年に発売され、新聞社のカメラマンに使われるようになる。しかし、1954年に発売されたライカM3にすべての面で凌駕されていたので、ニコンSPをベースに一眼レフ化したニコンFを1959年に発売し、ニコン(およびほかのカメラメーカー)はレンジファインダーカメラから一眼レフにシフトして行くことになる。その後は、簡略タイプのニコンS4が作られたのみで、時代は完全に一眼レフに移っていった。同時期に千代田光学もレンジファインダーカメラのミノルタスカイの開発をあきらめ、一眼レフのミノルタSR-2を1958年に発売する。キヤノンは戦前からレンジファインダーカメラを製造していたこともあり、1959年のポピュレール(P型)、1961年のキヤノン7、1965年のキヤノン7Sとレンジファインダーを作り続けたが、1959年にキヤノンフレックス、1960年にキヤノンフレックスR2000と一眼レフを出し、1965年にはペリクルミラーのキヤノンぺリックス、1966年にキヤノンFTQLを出して、一眼レフに集中するようになる。もともと1952年から一眼レフを作り続けていた旭光学工業は1957年にペンタプリズムを採用したアサヒペンタックスAP以来、M42マウントの一眼レフシリーズを続けて行く。この一眼レフ転進作戦が成功して、日本のカメラは世界一へと登りつめて行くことになったのだ。
RAWで撮影し、ピクチャースタイルなどを調整した。キヤノンEOS 7D MarkII、タムロン16-300ミリF3.5-6.3、1/500秒、F8、RAW、ISOオート。